岐阜県多治見市、土岐市、可児市、愛知県瀬戸市のお墓

お墓ブログ

お墓についてのお悩み解決します!

遠方の場合のお墓じまい

お墓じまいの工事でお墓からご遺骨を取り出しますが、立会いが難しい場合ゆうパックが利用できるのをご存知でしょうか。 近場の方の場合は後日引き取りに来ていただいたり、こちらからお持ちすることができますが、遠方の方の場合はなかなか難しいかもしれません。 そんな時はゆうパックでご遺骨をお送りすることができます。 石玉石材ではほかにも改葬の手続きやお寺様とのやりとりなどもお手伝いさせていただいていますので、お客様と一度もお会いすることなくお墓じまいが済んでしまうこともあります。 また反対に多治見に住んでいるけどお墓が遠くにある場合も石玉石材では対応が可能です。 全優石(全国優良石材店の会)や石産協(日本石材産業協会)といった団体に登録しているため、ネットワークを通じて全国各地での工事が可能です。 お墓の移転も対応しますのでお気軽にご相談ください。

偉人有名人のお墓紹介~山本勘助

山本勘助は武田信玄に仕え、数々の戦で功績を上げて名軍師と言われました。 勘助は15歳から26歳まで豊川市牛久保で過ごし、その縁もあって当寺の念宗和尚と非常に親しかったと言われています。 勘助は45歳で武田信玄に仕えましたが、その際には入道して道鬼斎と称し、遺髪を念宗和尚に託しました。 勘助は1561年に川中島の合戦で討死しますが、その死を悼んで念宗和尚がこの五輪塔を建立して、遺髪を納めたと言われています。 当寺院には、勘助が25歳の時に高野山で授けられ、常に持ち歩いて守り本尊とした「摩利支天像」も安置してあります。 勘助は肌身離さず持ち歩いた摩利支天像が戦場で討死して相手の手に渡るぐらいならと思い、念宗和尚に託していたのでした。 長谷寺では毎年勘助の命日に「山本勘助祭」として供養祭が執り行われています。

石材産地証明書

現在お墓に使われる石の多くは海外で産出されたものです。 中国やインド産の石が高い割合を占めますが、ヨーロッパやアフリカなど世界中の石が使われています。 近年は東南アジアの石もお墓への使用が始まってきています。 一方でもちろん国産の石を使用してお墓を建てる方もいらっしゃいます。 国産の石を使用する理由は様々ですがメイドインジャパンのブランド力に魅力を感じる方もいらっしゃれば、外国嫌いという方もいらっしゃいました。 国産の石のデメリットとしてはどうしても価格が高くなってしまうことです。 昔は国産と謳いながら外国の石を使っていたりした悪質な事例もあったようです。 石玉石材ではお客様に安心していただけるように石材産地証明書を発行しています。 採石した石屋さん、加工した石屋さん、そして販売する石玉石材の3社が石材が国産の石であることを証明します。 石は一般の方ではなかなか見分けがつかないですから少しでも安心につながればと思います。

地元の銘石紹介~塚本喜助翁碑

土岐市駄知町は昔から製陶が盛んな地域です。町内からは15世紀後半から16世紀前半の窯跡が見つかっており、その当時から陶器が作られていたことがわかります。 駄知の陶祖にはいろいろな説がありますが、駄知町北山には塚本喜助の碑が立っています。 喜助は1592年に生まれ、慶長年間(1596年~1615年)に駄知村へ移り住みました。 駄知にある森向戸の川底にある土が陶器に適していることを発見し、さまざまな陶器を製造しました。 喜助の子や孫はその仕事を伝承していったので、当地域では陶器づくりが盛んになりました。 その後、駄知で作られる土瓶やどんぶりは全国で知れ渡るようになります。 こちらの碑は塚本家の一族が明治39年に喜助の功徳を後世に伝えるために建てたものです。

お墓の精抜きに立ち会いました

近年増加しているお墓じまい工事の前には精抜き(閉眼供養)を行い最後のお参りをされることをおすすめしています。 それでも遠方にお住まいだったり、お身体が悪かったりで立ち会うことが難しい方もいらっしゃいます。 そんな時は石玉石材がお施主様に代わり精抜きに立ち会わせていただいています。 一度解体したお墓は移転の場合を除き元にはもどりません。 ですから最後にもう一度手を合わせお話ししていただく機会として大切な場となります。 直接立ち会えなくても少しでもお施主様の心の負担が軽くなればと考えます。 今回は平和霊園での精抜きでしたがちょうど桜が咲き始め散歩しながら眺めている方や写真を撮っている方がたくさんいらっしゃいました。

偉人有名人のお墓紹介~島崎藤村

島崎藤村は明治・大正・昭和の時代に活躍した小説家です。 本名を島崎春樹と言い、代々馬籠宿の本陣・庄屋・問屋を務めた名家の四男として生まれました。 元々は詩人として活動していましたが、徐々に小説を書くようになり、多くの代表作を残しました。 「夜明け前」は、藤村晩年の代表作で、幕末・明治維新の激動期を生きた父・島崎正樹をモデルとした歴史小説です。 その後「夜明け前」の続編となる「東方の門」に着手しましたが、1943年に脳溢血により自宅で倒れ、71歳で亡くなりました。 藤村は神奈川県大磯町にある地福寺で埋葬されました。したがって藤村と妻・静子のお墓は地福寺にもあります。 遺髪と遺爪が島崎家の菩提寺である永昌寺に分葬されました。 永昌寺にある藤村のお墓は島崎家代々の墓所内に立っており、石碑には本名の「島崎春樹」と刻んであります。 所在地:岐阜県中津川市馬籠

アクアリウムに使用する石材の切削加工

先日石玉石材のホームページをご覧になったお客様よりお問い合わせがありました。 アクアリウムに使う石を切ってほしいというもので、縦横が30㎝程度、厚みが10㎝強ほどのものでした。 水槽に立つようにしたいとのご希望でした。 真四角の石と違い表面に凹凸があるため固定するのが難しかったですが、欠けることもなくうまく切断できました。 引き取りに来られた際大変満足していただけたようで良かったです。 珍しいご依頼でしたが、石玉石材ではこうした石材の加工も可能です。 ご相談だけでも構いませんので何かありましたらお問い合わせください。 (加工前の写真を撮り忘れてしましました…)  

東日本大震災の教訓を後世へ

3月18日㈪に八戸市多賀多目的運動場で銘肝式が行われました。 式典は東日本大震災の教訓を忘れず、後世に伝えていくことの大切さを地域と連携しながら学ぼうと、2017年から開かれており今回が3回目でした。 地元の町内会や市川中学校の生徒らおよそ60人が参加し、震災の犠牲者に黙とうを捧げました。 運動場内に設置された津波記憶石は2016年に石玉石材が石材の制作・文字彫刻をしたものです。 式典には石玉石材からも社長がブロンズ像製作者の神戸峰男先生とともに参加しました。 当時の想いを語り継ぐ貴重な機会が今後もずっと続いていくことを願います。

地元の銘石紹介~佐倉惣五郎(宗吾)

多治見市脇之島町と土岐市妻木町には佐倉惣五郎(宗吾)を祀る御堂や石碑が建っています。 佐倉惣五郎は江戸時代の下総国佐倉藩の領民と言われています。領主の重税に苦しむ農民の為に将軍に直訴し、その結果領民は救われましたが、彼自身は死罪となりました。 惣五郎が実在したかはっきりとしませんが、実録本や歌舞伎で描かれ、広く知られるようになりました。 全国には彼を祀る祠や神社が多く造営されました。 多治見市脇之島町にある宗吾神社は明治時代に建てられました。 その当時、脇之島の人々は多治見町長や池田村長が推し進めた土岐川改修工事に反対し、その争いの勝利を祈念して、百姓一揆の指導者である佐倉惣五郎を脇之島の地に祀ったと言われています。この地では今でも命日の9月2日にお祭りが行われています。