岐阜県多治見市、土岐市、可児市、愛知県瀬戸市のお墓

お墓ブログ

お墓についてのお悩み解決します!

お墓と家紋

多治見市周辺のお墓には水鉢などに家紋が彫刻されていることが多いです。 家紋が誕生したのは平安時代で、当時の貴族たちが自分の牛車に独自の文様を付けて一目で誰のものかわかるようにしたのが始まりとされています。 鎌倉時代に入ると戦場で敵味方を識別し、一族の武功を誇示するために武家が家紋を使うようになります。 そして戦乱の世が終わり江戸時代になると町人が家紋を使うようになります。 多くの庶民が苗字を名乗ることができなかった当時、家紋が苗字の代わりに用いられていたようです。 その後明治時代になり全ての人が苗字を名乗るようになり、家紋はさらに広まっていきます。 現在家紋は2~3万種類ともいわれており、古くから日本で親しまれた植物や動物、星などがモチーフになっています。 家紋は家のロゴマークのようなものでお墓以外にも仏壇や着物、盆提灯などに付けられます。 お墓に家紋を入れるのは家族がこの先も代々続くようにとの願いが込められているためともいわれます。 近年は家にとらわれないお墓づくりも増えているため家紋のないお墓もありますが、家紋のデザイン性の高さなどから小さくてもどこかに入れたいというご希望もあります。 数も歴史もある家紋、なぜ自分たちの家紋が今のものになったのか調べてみるのも面白そうですね。

岐阜県立多治見病院 新中央診療棟 陶壁施工

県立多治見病院の新中央診療棟が4月30日より利用開始されました。 そのシンボルとして総合案内に地元の陶芸作家の安藤工先生の陶壁が設置されました。 弊社はこの度、陶壁の設置工事を請け負いました。 高さ約6m、横幅約3mのとても大きな作品で、据付も非常に苦労を伴いましたが無事仕上げることができました。 陶壁は「輝(かがやき)」という作品名で、とても煌びやで新診療棟のシンボルにふさわしい美しい作品です。 ぜひ県立多治見病院に行かれる際はご覧ください。

お地蔵さまは子供の味方

お墓の横などにお地蔵様が設置されていることがあります。 このお地蔵さまは水子や小さいうちに亡くなった子供の供養のために置かれます。 幼くして亡くなった子供たちは三途の川のほとりにある賽の河原で懸命に石を積み上げていくことになります。 それを邪魔しに来る鬼たちから子供たちを守ってくれるのがお地蔵様とされています。 昔と比べると水子は少なくなっていますが、亡くなってすぐではなく年月が経ってから設置を検討される方もいらっしゃいます。

ゴールデンウィーク期間休業のお知らせ

石玉石材は明日よりゴールデンウィーク休業日となります。 下記が休業日となります。 5月3日(金)~5月5日(日) どうぞよろしくお願いいたします。

新規墓石建立ー森下霊園

多治見市営森下霊園でお墓の建立工事を行いました。 今回のお墓の特徴は2つあります。 1つ目は石碑に使ってある石と外柵(囲い)に使ってある石が違う点です。 お墓は全てを同じ石で建てる必要はなく石碑と外柵の石が違うことはよくありますが、今回は色の比較的近い石を使用してあるため写真だとわかりにくいかもしれません。 現在多い組み合わせとしては黒系の石碑に白系の外柵です。 また石碑や外柵自体を2つ以上の石を組み合わせて建てることもできます。 たくさんの色の石があるので組み合わせは何通りも可能です。 2つ目は直線的なデザインです。 背の低い洋型と呼ばれるお墓には丸みのあるデザインのお墓も多いですが、今回のようなスッキリとしたデザインのお墓もあります。 見た目に関する部分は人によって好みがはっきり分かれるところなので、自分たち家族の理想はどんなお墓か考えてみるのも楽しいかもしれません。

地元の銘石紹介~馬除場(うまよけば)

土岐市高山は古くから下街道(したかいどう)の宿場町として栄えてきました。 下街道は恵那市と名古屋を結ぶ街道です。名古屋に行くのに中山道から上街道を使うルートが本筋でしたが、下街道はそれに比べて平坦で距離が短いので多くの人に利用されました。 高山宿は恵那から名古屋への2日間の行程のちょうど中間地点なので宿場町として多くの人が宿泊をしました。 土岐市高山の街道沿いに「馬除場」と書かれた石碑が立っています。 多くの人に利用される街道と言っても、道幅が狭いところでは馬がすれ違うこともできませんでした。 そこで馬がすれ違えるように数メートルの広場を設け、そのような場所を馬除場と言いました。 石碑には文化(1804年~18年)と書かれており、当時の街道の様子を現在まで伝えています。

お墓に刻む順番について

石碑や墓誌に亡くなった方のお名前を彫刻する際の順番についてですが、多治見市周辺では世代の古い順で彫ることが多いです。 例えばおじいさんよりもお父さんが先に亡くなった場合はおじいさんとおばあさんが入る2人分のスペースを空けてお父さんの名前を彫刻します。 また夫婦で奥さんが先に亡くなった場合ではご主人の入るスペースを空けて奥さんの名前を彫刻します。 これはお墓の建て方が儒教の影響を受けていることに由来します。 一方で単純に亡くなった順番で彫り込むこともあります。 明確な決まりはありませんのでお好きな方で問題ありません。 ただし地域やお寺などにより彫刻順を指定される場合がありますので確認だけ事前にしておくことをおすすめします。

遠方の場合のお墓じまい

お墓じまいの工事でお墓からご遺骨を取り出しますが、立会いが難しい場合ゆうパックが利用できるのをご存知でしょうか。 近場の方の場合は後日引き取りに来ていただいたり、こちらからお持ちすることができますが、遠方の方の場合はなかなか難しいかもしれません。 そんな時はゆうパックでご遺骨をお送りすることができます。 石玉石材ではほかにも改葬の手続きやお寺様とのやりとりなどもお手伝いさせていただいていますので、お客様と一度もお会いすることなくお墓じまいが済んでしまうこともあります。 また反対に多治見に住んでいるけどお墓が遠くにある場合も石玉石材では対応が可能です。 全優石(全国優良石材店の会)や石産協(日本石材産業協会)といった団体に登録しているため、ネットワークを通じて全国各地での工事が可能です。 お墓の移転も対応しますのでお気軽にご相談ください。

偉人有名人のお墓紹介~山本勘助

山本勘助は武田信玄に仕え、数々の戦で功績を上げて名軍師と言われました。 勘助は15歳から26歳まで豊川市牛久保で過ごし、その縁もあって当寺の念宗和尚と非常に親しかったと言われています。 勘助は45歳で武田信玄に仕えましたが、その際には入道して道鬼斎と称し、遺髪を念宗和尚に託しました。 勘助は1561年に川中島の合戦で討死しますが、その死を悼んで念宗和尚がこの五輪塔を建立して、遺髪を納めたと言われています。 当寺院には、勘助が25歳の時に高野山で授けられ、常に持ち歩いて守り本尊とした「摩利支天像」も安置してあります。 勘助は肌身離さず持ち歩いた摩利支天像が戦場で討死して相手の手に渡るぐらいならと思い、念宗和尚に託していたのでした。 長谷寺では毎年勘助の命日に「山本勘助祭」として供養祭が執り行われています。