岐阜県多治見市、土岐市、可児市、愛知県瀬戸市のお墓

お墓ブログ

お墓についてのお悩み解決します!

両家墓をご存知でしょうか

お墓というと「○○家之墓」と彫刻されたお墓をイメージされる方も多いと思いますが、最近はそうしたお墓ばかりではありません。 洋風のお墓が普及してきたことも大きいですが、家庭環境の変化もその一因かもしれません。 近年では核家族化が進み後継者がいないことを理由にお墓を建てない方がいらっしゃるようです。 そうした後継者のいない方々にも選ばれるのが両家墓というものです。 両家墓は文字通り2つの家族が1つのお墓に入るというものです。例えば自分たちの家族と奥さんの実家のご家族であったり、自分たちと娘さんの嫁ぎ先、あるいは甥っ子さん姪っ子さん家族であったりという感じです。 ○○家や家紋といったものを彫刻せずにメッセージ性のある言葉や絵柄を彫刻することで「苗字が違っても一緒のお墓に入っていいですよ」というお墓にすることができます(墓誌や花筒にそれぞれの姓や家紋を彫刻することはできます)。 娘しかいない、あるいは子供がいないという場合でもこのような方法でお墓を建てることはできます。 お墓の建て方に厳密なルールはありません。亡くなった方を偲ぶためにお墓が必要であれば建て方についてはアドバイスさせていただきますのでご相談ください。

お墓のメンテナンス工事

多治見市大原町の墓地にてお墓のメンテナンス工事を行いました。 お墓の枠の石がズレているとのご相談があり現場を確認すると、25年ほど前に工事した石がズレてきていました。 石同士をつなぐ金具は使用されていましたが、現在使用するものとは違い錆びてボロボロになっていました。 また石がズレた際にできたと思われるヒビもありました。 今回の工事ではヒビのあった部分を新しい石に取り換え、新しい金具を使用して枠石を据え直しました。 幸い石がズレた方には他のお墓が建っていませんでしたが、隣にお墓が建っている場合や通路に面している場合は石が落ちてケガにつながることも考えられるので、気付かれた場合は早めの対策をおすすめします。

地元の銘石紹介~下田歌子歌碑~

下田歌子は明治・大正期に活躍した教育者です。数多くの女学校設立に携わり、生涯を女子教育の向上に尽くしました。 下田歌子は恵那市岩村町の藩士の子として生まれましたが、彼女の歌碑が、土岐市と豊田市の境界にそびえる三国山の山頂にあります。 下田歌子は明治4年18歳で上京する際にまず岩村を出発し、中馬街道(現在の国道363号線)を使って陶・曽木・細野を通って柿野宿で宿泊しました。 柿野宿で宿泊した際に 綾錦 着て帰らずは 三国山 また再びは 越えじとぞ思う という歌を歌いました。 「成功して出世しないと、またこの三国山を越えて故郷に帰ることはできない」 という強い決意の表れでした。 その後は、教育者として大成して、故郷岩村町では「岩村町偉人十傑」にも選ばれており、歌の通り、見事故郷に錦を飾ったのでした。 三国山の歌碑は昭和32年に建立されました。

うるう年にお墓を建てるのは良くない?

2024年はうるう年です。 昔から「うるう年にお墓を建てるのは良くない」と言われることがあります。 うるう年にお墓を建てることには全く問題ないのですが、なぜそうしたことが言われるのでしょうか? これは江戸時代にさかのぼると理由がわかります。 当時日本では太陰暦が使用されており1年が354日しかありませんでした。 そのままでは暦と季節にズレが生じるため、約3年に1度調整のためにうるう月が設けられ、1年が13か月ありました。 この頃の武士の給料は年払いであり、1月多くなっても平年と同じ12か月分の給料で生活する必要がありました。 そのためお金のかかる家具の新調や仏壇・お墓の購入を控えるよう藩主に命じられたと言われています。 つまり「うるう年にお墓を建てるのは良くない」というのは、縁起が悪いわけではなく武士の家計を守るためのものだったのです。 物事にはそれぞれ理由や由来があります。 他にもいろいろと調べてみるのも面白いかもしれませんね。

偉人有名人のお墓紹介~徳川家康~

徳川家康は誰もが知っている歴史上の偉人ですが、そのお墓は静岡県の久能山東照宮にあります。 徳川家康は1605年に将軍職を息子の秀忠に譲ると、駿府城へ移り住み、その後1616年に亡くなりました。 遺言により遺骸は久能山に埋葬されました。亡くなる際には「久能山は駿府城の本丸と常に思召す」と言ったと伝えられています。 こちらのお墓は創建当初は木造でしたが、三代将軍家光により、石造宝塔に造り替えられました。 西向きにお墓が建てられていますが、西方には家康の生まれた岡崎があり、その先には京都があります。 一周忌が終わると、遺言により、日光へ分霊されましたが、その時に遺骸も改葬されたという説もあります。 所在地:静岡県静岡市 久能山東照宮

地元の銘石紹介~木曽源氏の里~

多治見市の古虎渓駅から山を上がっていくと「諏訪町」という人口100人程度の小さな集落があります。 この地域は元々、平安時代末期に木曽義仲の家臣・今井四郎兼平が粟津の戦いに敗れた後に一族と共に移り住んだのが始まりと言われています。 町内には「木曽源氏 今井四郎兼平 一族隠住の地」と刻まれた石碑が立っており、その横には小さな塚があります。 諏訪町は「今井」姓が多いのですが、その今井一族の祖と言われるのが今井四郎兼平です。 町内の諏訪神社では毎年「棒の手」が行われていますが、これは兼平がこの地の者に武術を伝授したのが芸能化して今日まで伝えられたとも言われています。 石碑の場所から更に坂を上ると宝篋印塔や石造物が多く並び、この集落の歴史の長さを感じさせます。 所在地:多治見市諏訪町

新規墓石建立ー瑞浪市明世町

瑞浪市明世町で墓石建立工事を行いました。 今回の工事は墓地検索サイトを通してのご依頼でした。 墓地検索サイトとは自分が希望する墓地の資料請求や見積り依頼、現地見学の予約などができるものです。 現在ではこうしたサイトが数多くあり、石玉石材も複数に登録しています。 複数の業者から資料が届くため色々と比較してみたい場合には便利です。 一方で紹介手数料などが発生するため割高になるケースもあります。 お墓づくりは初めてのことがほとんでわからないことだらけだと思います。 いきなり石材店に行くのは敷居が高いかもしれませんが、お墓のことはお墓のプロが一番詳しいです。 石玉石材ホームページの無料ご相談フォームからはいつでもお気軽にお問い合わせいただけますのでご活用ください。

お墓の移転工事ー瀬戸市

愛知県瀬戸市にあるお墓の移転工事を行いました。 移転は同じ町内でのものでしたが、地域墓地から寺院墓地(霊園)への移転です。 お墓を新たに建てたり、維持管理したりする上でお参りのしやすさというのは重要なポイントです。 つまり自宅からの距離が近かったり、草が生えないといった手のかからないお墓であることが重要視されています。 今回のような地域墓地からの移転であれば現在の墓地よりも設備や環境面が整っていてお参りがしやすくなることが期待できます。 また将来的にお墓じまいが必要になった場合でも寺院墓地であればお寺さんにスムーズに対応していただけるメリットがあります。 現在のお墓の維持管理にお悩みでしたらまずはお気軽にご相談ください。いろいろな方法をご提案させていただきます。

偉人有名人のお墓紹介~沢村栄治~

沢村栄治は日本のプロ野球史上に残る伝説の投手です。 史上2人目のシーズン防御率0点台や、史上初の投手5冠、史上初のノーヒットノーラン達成など輝かしい成績を残しました。 1934年に行われた日米野球でアメリカ選抜相手に8回1失点の好投をしたことはとても有名です。 実は沢村栄治がプロで活躍したのは5年間だけです。彼が活躍した時代は戦時中であり、沢村栄治自身も徴兵され、戦地に赴きました。 1944年12月2日、フィリピン防衛戦に向かうために乗っていた船がアメリカ軍潜水艦によって撃沈され、27歳の若さで亡くなりました。 沢村栄治のお墓は故郷である三重県伊勢市に建てられて、野球ボールの形をしています。表面にジャイアンツの「G」、裏面には背番号である「14」が刻まれています。 沢村家の墓所は2017年に親族によってお墓じまいをされました。しかし、この石碑だけ記念碑として現在も同墓地に残されています。 所在地:三重県伊勢市 一挙坊墓地