岐阜県多治見市、土岐市、可児市、愛知県瀬戸市のお墓

お墓ブログ

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地元の銘石紹介~本土神社 宝篋印塔

多治見市小田町にある本土神社の境内には宝篋印塔が安置してあります。 もともとは上野町5丁目の御嶽神社にあったものがのちに現在の場所に移されたそうです。 宝篋印塔とはもともと宝筐院陀羅尼経というお経を納めたことからこの名前が付き、後にお墓(供養塔)として広く建てられるようになりました。 宝篋印塔は隅飾突起と言われる部分から建てられた年代を推測することができます。この宝篋印塔の隅飾突起は垂直に上がっているので室町時代初期に建てられたと考えられます。 この時代の石造物が現存しているのは貴重で、また基礎と呼ばれる部分に梵字が彫ってあるのはとても珍しいです。 本土神社の宝篋印塔は市指定の有形文化財に指定されています。

花筒彫刻いろいろ

お墓の花筒への彫刻は以前はハスや菊といった花柄が主流でしたが、最近はお墓のデザインも増え彫刻する絵柄も多様化しています。 花柄に限らず見本さえあれば大体のものは彫刻が可能で、もちろん文字でも大丈夫です。 なおネットでご覧になられた絵柄を持ってこられる方もいらっしゃいますが著作権等には十分ご注意ください。 今回は石玉石材で彫刻したデザインの一部をお見せします。 お墓を建てる際の参考にしてみてください。

偉人有名人のお墓紹介~歴代琉球国王

琉球王国の歴代国王である尚氏一族のお墓は「玉陵(たまうどぅん)」と呼ばれています。 お墓は中室・東室・西室の3つの部屋に分かれており、埋葬方法は沖縄県特有の方法が取られています。 遺体はまずお骨になるまで中室に置かれます。数年後にお骨を洗って(洗骨)骨壺に納めて、王と妃のお骨は東室に移され、他の王族のお骨は西室に納められます。 洗骨は沖縄県で見られた特有の風習で、琉球王国王室の洗骨は戦前までは行われていたと言います。 玉陵の様なお墓の形を「破風墓(はふばか)」と言いますが、破風墓を建てることは以前は王朝の一族のみ認められていました。しかし1879年に解禁されると、広く沖縄県内で建てられるようになりました。 所在地:那覇市首里金城町  

両家墓をご存知でしょうか

お墓というと「○○家之墓」と彫刻されたお墓をイメージされる方も多いと思いますが、最近はそうしたお墓ばかりではありません。 洋風のお墓が普及してきたことも大きいですが、家庭環境の変化もその一因かもしれません。 近年では核家族化が進み後継者がいないことを理由にお墓を建てない方がいらっしゃるようです。 そうした後継者のいない方々にも選ばれるのが両家墓というものです。 両家墓は文字通り2つの家族が1つのお墓に入るというものです。例えば自分たちの家族と奥さんの実家のご家族であったり、自分たちと娘さんの嫁ぎ先、あるいは甥っ子さん姪っ子さん家族であったりという感じです。 ○○家や家紋といったものを彫刻せずにメッセージ性のある言葉や絵柄を彫刻することで「苗字が違っても一緒のお墓に入っていいですよ」というお墓にすることができます(墓誌や花筒にそれぞれの姓や家紋を彫刻することはできます)。 娘しかいない、あるいは子供がいないという場合でもこのような方法でお墓を建てることはできます。 お墓の建て方に厳密なルールはありません。亡くなった方を偲ぶためにお墓が必要であれば建て方についてはアドバイスさせていただきますのでご相談ください。

お墓のメンテナンス工事

多治見市大原町の墓地にてお墓のメンテナンス工事を行いました。 お墓の枠の石がズレているとのご相談があり現場を確認すると、25年ほど前に工事した石がズレてきていました。 石同士をつなぐ金具は使用されていましたが、現在使用するものとは違い錆びてボロボロになっていました。 また石がズレた際にできたと思われるヒビもありました。 今回の工事ではヒビのあった部分を新しい石に取り換え、新しい金具を使用して枠石を据え直しました。 幸い石がズレた方には他のお墓が建っていませんでしたが、隣にお墓が建っている場合や通路に面している場合は石が落ちてケガにつながることも考えられるので、気付かれた場合は早めの対策をおすすめします。

地元の銘石紹介~下田歌子歌碑~

下田歌子は明治・大正期に活躍した教育者です。数多くの女学校設立に携わり、生涯を女子教育の向上に尽くしました。 下田歌子は恵那市岩村町の藩士の子として生まれましたが、彼女の歌碑が、土岐市と豊田市の境界にそびえる三国山の山頂にあります。 下田歌子は明治4年18歳で上京する際にまず岩村を出発し、中馬街道(現在の国道363号線)を使って陶・曽木・細野を通って柿野宿で宿泊しました。 柿野宿で宿泊した際に 綾錦 着て帰らずは 三国山 また再びは 越えじとぞ思う という歌を歌いました。 「成功して出世しないと、またこの三国山を越えて故郷に帰ることはできない」 という強い決意の表れでした。 その後は、教育者として大成して、故郷岩村町では「岩村町偉人十傑」にも選ばれており、歌の通り、見事故郷に錦を飾ったのでした。 三国山の歌碑は昭和32年に建立されました。

うるう年にお墓を建てるのは良くない?

2024年はうるう年です。 昔から「うるう年にお墓を建てるのは良くない」と言われることがあります。 うるう年にお墓を建てることには全く問題ないのですが、なぜそうしたことが言われるのでしょうか? これは江戸時代にさかのぼると理由がわかります。 当時日本では太陰暦が使用されており1年が354日しかありませんでした。 そのままでは暦と季節にズレが生じるため、約3年に1度調整のためにうるう月が設けられ、1年が13か月ありました。 この頃の武士の給料は年払いであり、1月多くなっても平年と同じ12か月分の給料で生活する必要がありました。 そのためお金のかかる家具の新調や仏壇・お墓の購入を控えるよう藩主に命じられたと言われています。 つまり「うるう年にお墓を建てるのは良くない」というのは、縁起が悪いわけではなく武士の家計を守るためのものだったのです。 物事にはそれぞれ理由や由来があります。 他にもいろいろと調べてみるのも面白いかもしれませんね。

偉人有名人のお墓紹介~徳川家康~

徳川家康は誰もが知っている歴史上の偉人ですが、そのお墓は静岡県の久能山東照宮にあります。 徳川家康は1605年に将軍職を息子の秀忠に譲ると、駿府城へ移り住み、その後1616年に亡くなりました。 遺言により遺骸は久能山に埋葬されました。亡くなる際には「久能山は駿府城の本丸と常に思召す」と言ったと伝えられています。 こちらのお墓は創建当初は木造でしたが、三代将軍家光により、石造宝塔に造り替えられました。 西向きにお墓が建てられていますが、西方には家康の生まれた岡崎があり、その先には京都があります。 一周忌が終わると、遺言により、日光へ分霊されましたが、その時に遺骸も改葬されたという説もあります。 所在地:静岡県静岡市 久能山東照宮

地元の銘石紹介~木曽源氏の里~

多治見市の古虎渓駅から山を上がっていくと「諏訪町」という人口100人程度の小さな集落があります。 この地域は元々、平安時代末期に木曽義仲の家臣・今井四郎兼平が粟津の戦いに敗れた後に一族と共に移り住んだのが始まりと言われています。 町内には「木曽源氏 今井四郎兼平 一族隠住の地」と刻まれた石碑が立っており、その横には小さな塚があります。 諏訪町は「今井」姓が多いのですが、その今井一族の祖と言われるのが今井四郎兼平です。 町内の諏訪神社では毎年「棒の手」が行われていますが、これは兼平がこの地の者に武術を伝授したのが芸能化して今日まで伝えられたとも言われています。 石碑の場所から更に坂を上ると宝篋印塔や石造物が多く並び、この集落の歴史の長さを感じさせます。 所在地:多治見市諏訪町